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高松市木太町の地形はどうだったの?


 参考文献 木太町郷土誌(平成7年12月1日 木太町郷土誌を作る会発行


 平成16年は実に台風の多い年であり、当事務所のある木太町も台風16号(8月30日)が、ちょうど大潮の時期に重なった上満潮時刻とほぼ重なるように香川県地方にやってきたため、かってないほどの高潮被害に見舞われてしまった。当事務所も海岸から2キロぐらい離れてはいるが、川を遡り元々そんなに高くない堤防を越えて塩水がやってきたのだ。詳しくは我が郷土香川・高松だよりの台風16号高潮被害報告を参照して頂きたい。

 ではいったい当事務所のある高松市木太町の昔の地形はどうだったのであろうか?郷土史関連の文献を調べてみた。すると以下のような事が判明した・・・上記の参照地図をみながら読み進めて頂きたいと思う。


 1637年に高松・生駒家に使えた西島八兵衛が現在の旧11号線(地図中の国道11号線1つ南の東西にある主要県道)付近に堤防を作り、それまでの海岸(ことでん・長尾線北側にって南東に走っている主要県道付近)の間の湿地帯や中州を干拓しているのである。

 1687年には高松藩・松平家が川口源兵衛 藤堂庄兵衛 堀八郎右衛門らに命じて現在のことでん・志度線付近に堤防を作らせて、沖松島 木太 春日付近を埋め立てをして新田開発を行ったといわれている。

 このように当事務所付近の土地はこれら以前は湿地帯か中州だったわけで、基本的には低湿地帯だったわけである。したがって標高などはそんなに高くなく、地盤もあまりよくないのである。


 さらに裏付けるように、地図中の松島町の文字の付近のすぐ東側から初めての川(詰田川)の間の地域の明治末期の状況は、土地が低いので排水事情が非常に悪く、冬季でも地下水は地表から5寸より下になることはまれであって、少しの雨で地表水としてわき出すほどである。また夏の豪雨の際の満潮時には氾濫して深いときには34尺になることもある。このため二毛作はほとんどできない状態である(讃岐では普通は稲作の裏作として当時は麦が植えられることが多かった)。

 事実1910年から3年間に渡ってこの地域から春日川の間 旧11号線付近以北の地域は耕地整理を実施して土地の改良がなされている。


 1946年の南海地震で地盤沈下しており、地図中木太小の文字の付近の川(詰田川)に札場横井(川の小規模な可動式堤防)の記念碑碑文(1952年)からは、地盤沈下で高潮被害が甚大でその対策で建設したという記録がある。

 またここは1973年から1年半かけて改良工事がなされており、竣工記念碑碑文にも高潮被害のことが触れられている。

 このように最近まで高潮や豪雨による浸水に常に悩まされてきた土地柄のようであり、私自身記憶のある範囲でも小学生以来去年の高潮 大雨による浸水(但しいずれも建物には被害はなく、大抵は自家用車の心配に終わっている)は2回程度あった。


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