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  高松風土記


高松風土記23 戦時中の生活2


 食生活の確保は国民生活上急務であったが、特に主食の米等の確保には最大の苦心があった。それが逼迫したのは昭和14年に西日本に発生した大干ばつであった。香川県でも通常年間137,000トンの収穫があるところ74,600トンしか収穫がなかった。外米を輸入しても不足分を満たすことはできなかった。当然米価の高騰し売り惜しみ買い占めが横行した。そして米価統制と応急の配給統制等が実施され、やがて白米の禁止と7分づきの常用が強制された。

 ますます事情が厳しくなり、ついに昭和17年2月21日食糧管理法が成立・実施され、農家は自家米を除き、主要食糧を政府(実際は代行機関である食糧営団もしくは政府の指定する者)にすべて売り渡さねばならない米穀供出制度が実施された。主要食糧の範囲は米麦・麺類・パン・馬鈴薯・デンプンとそれらの加工品が対象となっていた。

 昭和18年1月の配給量は成人原則米2.6合だったのが、昭和19年7月になると2.3合となり、米5割・麦3割・乾麺2割という基準となった。ちなみに昭和19年にも香川県は大干ばつに見舞われ、さらに食糧事情は悪化の一途をたどっていった。昭和20年7月にさらに減配され2.1合の配給となり、外食券制度の導入となった。外食券は食糧営団の発行で、これで雑炊を購入するもので、これがないと外食ができなかった。この雑炊の規格は、米3合に野菜などを入れ2.5合に増やし、箸を立てても倒れない程度とされた。


 軍需物資となる各種金属類の不足は昭和13年頃から発生しだし、鉄鋼配給統制・金属類廃品回収が強化されてきた。昭和14年には、マンホール・鉄柵・ポスト・街灯などの不要不急品の回収、昭和16年には金銀やその細工品の回収・供出が開始されてきた。昭和17年にはそれらの回収に行政が力を入れだし町内会や隣組を動員しての供出運動が展開されてきだした。

 昭和18年にはいると、寺社等の銅鐘や仏具、公共施設・学校等にある銅像の回収、町内会の特別金属回収が展開された。銅像は香川県内から70体が集まり、その除魂式を旧高松城桜の馬場で挙行された。当然それらは兵器の材料となっていった。

 昭和19年には、屋島ケーブル鉄路供出のための解体、現在のことでん志度線の八栗・志度間の軌道撤去(これは現ことでん長尾線の改修工事に転用)、使えなくなった農機具の回収、昭和20年には銀製品の特別供出が町内・隣組あげてなされた。 


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