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  高松風土記


高松風土記11 高松の鉄道網


 今回は明治後期の高松市内の鉄道網について、宇高連絡線(前身も含む)も含めて見ていくことにしましょう。


 まず高松初めての鉄道は、明治22年5月23日に丸亀・琴平間に開通させた讃岐鉄道が、明治30年2月21日に高松・丸亀間に開通させたのがはじまりであったが、高松駅は現在の扇町にある県立盲学校付近であり、高松港とは人力車連絡というものであった。列車の運転本数(明治32年頃)は11往復あり、高松・琴平間を2時間5分前後で運転されていた。その後讃岐鉄道は山陽鉄道と合併して、さらに国有鉄道法により明治39年12月には国有鉄道の讃岐線となった。現在地の高松駅は明治43年7月1日に移動してきたのである。


 次に宇高連絡船を見ていくと、その前身は山陽鉄道が明治36年10月に岡山・高松間に定期航路を開設したことに始まる。この頃は、岡山駅から人力車で移動し、旭川沿岸の京橋から小さな船に乗船して、児島湾の三幡にて本船に乗り移り、土庄経由で高松港にたどり着くという調子で、1日2往復で所要時間は4時間程度であった。

 明治43年6月12日に岡山・宇野間の宇野線全通により宇高連絡船が宇野・高松間に就航した。当初は1日4往復であり、宇野・高松間1時間20分 土庄経由(内2往復)は2時間55分の所要時間であった。しかしやがて土庄経由は取りやめとなり直行となった。


 次に見ていくのが私鉄だが、まず最初に登場するのが東讃電気軌道が、明治44年11月18日に今橋・志度間に電車を走らせたのである。次に開通したのは、明治45年4月30日に出晴(現在のことでん瓦町駅志度線ホーム付近)・長尾間に電車を走らせた高松電気軌道である。
 さてまだ琴平線はまだなく、今橋と出晴のロケーション設定は、当時今橋と出晴は高松市と東浜村の境界にあり、それぞれ高松と東讃を結ぶ拠点でもあった。後に出晴・今橋間が開通する東讃電気軌道の路線は正に高松市と東浜村の境界上付近を走っていたものと思われる。

 そして東讃電気軌道(現在のことでん志度線)の路線を見ていくと、現在の松島2丁目駅付近は少し南に路線があり、そして現在の琴電屋島駅から古高松駅・八栗駅付近の路線は、古高松駅が現在の県道牟礼・中新町線の概ねマルナカ屋島店付近にあったことが国土地理院の旧版地図で確認される。また高松電気軌道(現在のことでん長尾線)の路線は、出晴・御坊川(現在の花園駅東側の御坊川付近)間は、現在のことでん瓦町駅志度線ホーム付近からまずは東にそしてやがて南東に一直線に路線があった。その名残は、旧国道11号線(通称観光通)と長尾線が交わる踏切から北へ少し行くと、現在の路線はやがて西にカーブしている付近からナナメ一直線にある道路がその名残なのである。


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