本文へスキップ

お客様の成功と繁栄をともによろこびあえることをめざします

TEL. 087-862-5268

〒760-0080 香川県高松市木太町3204-4


旅行・香川・ロシアの館
 
  高松風土記


高松風土記7 高松藩朝敵事件


 
高松松平家は1642年の発足から、水戸徳川家とのかかわりの関係から幕府での地位が優遇されており、従来からその時の幕府の政策動向に影響を与えたり受けたりしていた。幕末になってくるとその度合いがますます高まり、徳川斉昭(第9代水戸藩主)と幕府との確執、尊皇攘夷派とのあつれき、薩摩・長州などの諸藩や改革派との対立、幕府の統治力の低下などに必然と巻き込まれてくるのであった。

 1866年12月に孝明天皇崩御、翌1867年1月に明治天皇ご即位、同年10月に第15代将軍徳川慶喜が大政奉還、同年12月には明治天皇の王政復古の大号令が発せられる中で、1868年1月に旧幕臣派と朝廷・薩長中心とする官軍が京都で鳥羽伏見の戦いが発生した。これに高松松平家も旧幕臣方に参戦せざおう得なくなったが、それほど積極的に交戦したともいわれていない。


 しかしながら朝廷では、征討(せいとう)将軍仁和寺宮が高松 姫路 松山 大垣にたいして征討軍の派遣を命じたことにより、高松松平家も朝敵となってしまったのである。その時に重役の伏罪(切腹)の他は嘆願の可能性はないともされていたようだ。

 それとともに第11代藩主松平頼聰が朝廷への嘆願書を、興正寺(浄土真宗一派の本山)御門跡を通じて進達を行った上で、御城を出て城下五番丁の浄願寺に山門や勝手門とも閉じて謹慎に入った。また鳥羽伏見の戦いに参戦した主立ったものを町奉行に預けるたり、そして家老 小夫兵庫と小河又左右衛門に切腹を命じて、両人の首級は検使が持ち帰り藩主の添え状とともに征討将軍仁和寺宮に差し出すべく飛脚船で大坂に出帆したのである。こうして朝敵の汚名を免れるべく行動を直ちに取ったのであった。

 やがてには、征討軍として土佐山内家中の軍を中心に丸亀京極家と多度津京極家の藩兵の先導役とともに高松に進駐してきたのである。これに対して高松松平家は御城から降参の文字を書いた白旗を示して恭順の意を表してこれらの進駐軍を迎えたのである。こうして高松藩の領地と人民は当分の間土佐山内家の預かりとなっていったのである。


 こうした努力があって同年2月20日に、征討軍総督が謹慎中の藩主松平頼聰を訪ねて、朝廷で嘆願が聞き届けられたことを伝えたことで許され、従来通りの統治が認められ33日ぶりに御城に戻ることが出来たのである。これをもって征討軍は高松藩から引き上げていった。

 そして京都に上り興正寺に再び謹慎してから、朝廷に対して糧米の献納や12万両献納の内8万両の即献金を行った上、関東出兵の嘆願を行ったところ、謹慎が許され官位が服されたのである。このようにいわゆる朝敵事件は、高松藩上げでの大きな犠牲を払った後に解決されたのである。 



ナビゲーション

社会保険労務士溝上久男事務所

〒760-0080
香川県高松市木太町3204-4

TEL 087-862-5268
FAX 087-833-1218


copyright©2012社会保険労務士溝上久男事務所  all rights reserved.