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  高松風土記


高松風土記4 讃岐3白


 
今回は讃岐3白(さぬきさんぱく)をテーマにしてみたいと思う。讃岐3白は、綿・塩・砂糖をさしており、特に江戸時代には塩・砂糖については全国的シェアーを占めるほどになりつつあった。これらの産物の生産が盛んになったのは、瀬戸内式気候の温暖な雨の少ない気候が適していたからである。米作などの農作物については雨の少ない気候は干ばつなどでしばし飢饉に見舞われるが、これらの産物にはむしろ好都合だったのであった。

 讃岐全体(高松松平藩 丸亀京極家)でこれらの主要生産地を見ていくと、綿はどちらかといえば坂出から西にかけての中讃・西讃地域、砂糖(甘蔗・かんしょ栽培も含む)については大川郡中心とする東讃地域が主要生産地となっている。塩については讃岐全体の海岸ほぼあまねくある塩田で生産されており、全国シェアーの1割の生産高があった。


 現在の高松市域でのこの当時の塩田分布を見ると、まず屋島の南に東西に流れる相引(あいびき)川周辺 屋島東部の源平古戦場で有名な壇ノ浦 屋島南西の海岸などに存在していた。江戸時代には特に屋島南西部の海岸の塩田開発は特に進められており、1755年亥の浜塩田(この年が亥年だった)、1756年子の浜塩田、1834年潟元新浜塩田、1835年粕納屋塩田があげられる。これらの塩田は現在の場所で当てはめると、ことでん志度線潟元駅北西付近から屋島健康ランドと高松テルサの範囲がほぼ該当するのである。これらの塩田はほぼ高松藩直営であり、明治の廃藩置県で明治政府の所有となり、昭和46年の塩田廃止まで続けられていったのである。


 砂糖については意外性があるかもしれないが、1750年代から甘蔗の作付面積が増え、それともに砂糖の生産も増えている。そして1850年頃にはそれらが著しく増して、この当時薩摩黒砂糖 輸入(長崎貿易)白砂糖と並ぶ讃岐白砂糖として、大阪市場におけるシェアーは半分以上占めブランド商品として輸入砂糖に匹敵する品質を保っていた。

 砂糖の製法は、甘蔗を絞ることから始まるが、絞り方は牛に引かせたローラを回すことによってなされ、その汁を煮詰めていく。そして冷やし壷に入れて冷却すれば結晶が生じる。これが白下糖でこのまま出荷もできるのだが、ここから白糖に再加工するときには、まず押し槽(おけ)に一昼夜入れて加圧し、取り出して手でもみほぐす。そして若干水分を加えてから再び押し槽に戻して再度同じような工程を繰り返すと、糖蜜は減少して漂白の度は進んでいく。4回繰り返したものが今にも伝わる讃岐和三盆糖なのである。極上品はこの工程を5回繰り返したものなのである。


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