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  高松風土記


高松風土記1 高松のはじまり


 今回から高松の歴史などを紹介した記事を連載を開始します。なお高松市は本年9月に香川郡塩江町 来年1月に綾歌郡国分寺町 香川郡香川町 香南町木田郡牟礼町 庵治町と合併しますが、この連載での『高松』は、特に断りのない限り平成17年9月以前の高松市の記事の連載とします。


 1587年8月豊臣秀吉の家臣だった生駒親正が讃岐の領主となり、まずは大阪に近い讃岐の東端にある引田城を拠点とした。ところがこれでは西讃地方の統治には支障を生じたので、宇多津の聖通寺(しょうつうじ)城を検討したが城域が狭いため断念、また現在の丸亀城を築こうとしたが、今度は東讃・大内郡(現在の東かがわ市あたり)へ1日のうちに到着できないため、これも断念となった。その次は山田郡(現在の高松市南東部)・由良山に城を築こうとしたが水利が不便であってこれとて断念した末に、香東郡の野原庄の海浜に城を築くことになり1588年工事に着手した。これが『讃州 讃岐の高松様は城が見えます波の上』と後にいわれた高松城の誕生となり、現在の高松市街地形成の元となった。このとき城の名前は、源平屋島古戦場で知られた高松の名前を採用して、旧高松は古高松(高松市東部)と称するようになった。


 高松城が海浜の地に築城したから、城下周辺は北側はすぐ海、南は鍛冶屋町(現在の五番町交差点付近)あたりまで、東西は干潟が広がっており町筋の広がりはあまり見られなかったので、南の方に城下をのばしていた。東は新橋 今橋あたりまで陸地で、現在の福岡 松島 松福町 長尾街道以北(詰田川にかかる木太大橋以北)の木太町 春日町 屋島西町付近は遠浅の海もしくは干潟だったのである。現在陸続きになっている屋島は、この時代は瀬戸内海に浮かぶ島の1つであり、島だった名残が屋島の南に東西にある相引(あいびき)川である。


 さてこの生駒家の高松統治は4代53年間 その終焉が家臣同士の権力闘争で江戸幕府の評定にも上がってしまい、1640年7月にこれが原因で讃岐171,800石没収され、出羽国由利郡矢島(秋田県)に1万石で転封となってしまった。

 その後は1642年2月に、松平頼重が東讃岐(現在の綾歌郡 坂出市以東)12万石の領主となった。松平頼重は水戸初代藩主徳川頼房(徳川家康第11子)の長男だったが、頼房が兄に子がなかったので公にせず家臣に預けたからである。そういうわけで次男の徳川光圀(水戸黄門ですよ!)が水戸家を次ぐことになってしまった。こういう訳で以後水戸藩との関わりが深く、高松松平家は徳川一門の親藩扱いで、江戸城の控えの間も御三家(水戸 尾張 紀伊徳川家)の次の待遇を受けており、譜代大名筆頭大名の彦根井伊家と並ぶ格式待遇で幕府から重く見られていた家柄だったようである。


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