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サンクトペテルブルク紀行 2001.5.28〜6.3
9 観光第2日目そぞろ巡り 5.31


 さて01年5月31日で2日目の朝を迎えた。今日は出発すると帰りは深夜近くに帰ることになる。くなるのは夕方からバレエ鑑賞することにしているからである。まず今日の最初の行き先はペトロパブロフスク要塞へ向かうことにする。モスクワホテルからは地下鉄で3つ目の駅で下車なので気楽にいけると思った。そして3つ目の駅到着後地上に出たが、何だか様子が変である・・・どう考えても通りに沿って商店や住宅が建っているではないか。たしか広い公園があるはずなのにおかしいと思いつつ通りを進む・・・地図と地下鉄路線図を再確認してみると現在ヴァシリェアストロフスカヤ駅にいることが分かり、1つ手前の駅で乗り換えするのを忘れていた。そうして一駅引き返して乗り換えして1つ目の駅のゴーリカフスカヤに着いた。今度は間違いなくこれたのでペトロパブロフスク要塞の入り口へ公園の中を適当に歩いたらそのうち着くだろうとテクテク進んだ。しかしこれがいけなかった・・やがて動物園の入り口が見えてきてまたしても遠回りしているような気がした。事実要塞の一番外側の円周を歩いていたようで1キロ以上手頃なウォーキングになってしまった。


 ペトロパブロフスク要塞は西から入ることになり、この要塞はサンクトペテルブルク発祥の地で1703年5月16日(現在の27日)に要塞建築が開始され た意義ある場所である。要塞のメインはペテロパブロフスキー聖堂であり1733年に完成しており、鐘楼と遙かに高く空中に十字架を握った金色の天使が舞っている。この鐘楼は後日ネバ川対岸からも結構目立ちこのサンクトペテルブルクのメインシンボルのように思えてならなかった。聖堂内部は外からの光にあふれ比較的に明るいため調度品や天井のイコン画が鮮やかに鑑賞することができ、両脇にはピョトル1世を初めとするロマノフ家代々の墓標が並んでおり、時が止まるようなとぎすまされたひとときを過ごしたのである。出入り近くには売店がありここの要塞のパンフレットがあり60ルーブル(240円)で購入した。このパンフレットも各国語編があり日本語版もなぜかあった。

 この広い要塞内にはトイレが1カ所しかない。しかもここはチップ必要な管理人のおばさんつきで4ルーブル(16円)であった。そして私が出ようとしたとき管理人のおばさんは硬貨で台をせわしなく叩きドル紙幣をかざしていて何か話しかけてきたが当然これは無視した。というのはヤミ両替の勧めであるからだ。

 聖堂の南側の要塞司令官邸があるが、ここは要塞司令官の公邸と共に最高刑事裁判が行われていたようであったが。現在は町の歴史を語る展示コーナーがある。そしてネバ川にこの要塞唯一開かれているネフスキー門を出て行くと川に司令官専用の桟橋があり、ここは水面近くまでおりることができる石造りの桟橋だった。



 ペトロパブロフスク聖堂

   
 さてさてペトロハプロフスク要塞内を東に進み要塞から外に出ることになる。次に目指すは近くにある10月革命博物館だが行ってみたら、すでに廃館になっていてみる形もなかった。そうして次のオーロラ号を見に行くことになった。この辺は大通りの街角にしては横断歩道がない信号がないので、渡るのは左右見て命がけで小走りに走らなければならない。妙な下町で不安だったが適当に歩いて川沿いに出た。川沿いに進むと変な黒い帆船が係留されているがこれではなかった。さらに進んでみるとやがてオーロラ号にたどり着く。船の周りは土産物屋が多かった。ちなみにオーロラ号見学は無料であった。


 このオーロラ号はロシア1917年10月革命の時に、ネバ川から皇帝の住まいである冬宮に空砲を撃ったのが、革命の始まりの合図となった。この為ロシア革命の記念艦船として現役引退後永久保存されることとなったのである。ちなみにこのオーロラ号は1905年の日本海海戦にも参加しているのであった。ソ連時代であれば革命の聖地と言うところであろうか。現在でも国内観光客だけでなく外国人観光客も訪れる名所だったのである。

 乗艦してみると甲板で係員はいなかった。艦船を後方に進み後部甲板に行ったら対岸の眺めがすばらしかった。そして艦船の内部に行くと生活用品、艦船の備品、オーロラ号の活躍している絵など所狭しと展示してあったが、当時の歴史背景をふりかえりつつ興味深く見学した。


 ネバ川に係留されているオーロラ号


 オーロラ号船内の展示物

 この近くの名所はもう一つあり、ピョートル小屋博物館(有料)である。さっきの川沿いを進んでいってそれらしきものが見えてきたので目星をつけていったらそうだった。この町の創設者であるピョートル1世のレリーフがあり、小屋というところから建物自体は大きくはなかった。ここは8年間要塞と宮殿ができるまでの住まいであり、とんでもない丸太小屋であるが、ただ現在は保存のためか建物を包むようにして煉瓦造りの建物を建てていた。内部も質素な作りと調度品でこれが皇帝のお住まいだったのかしら・・・とちょっと疑いたくなるほどである。

 この後はゴーリフスカヤ駅に戻るが、ここで分かったことはペトロパブロフスク要塞の東側入り口と地下鉄駅までは至近距離だったことが分かった。つまり朝は反対の方向に歩いていたことになる。1駅立ち戻り再びネフスキー大通りの人となるが、尿意を催したのだが公衆トイレなどあまりないのがロシアであるし地下鉄の駅にもあろうはずがない。そこでひらめいたのがマクドナルドの店には万国共通きれいな無料のトイレがあるはずと思い、きのう見つけた店に行ってみたら予想通りあった・・・あぁぁぁホッとしたぁ〜。予想通りのマニュアル通りきれいで水洗で便器もまともであった(ロシアの公衆トイレは便座がないことがしばしばであるし衛生状態がよくない事が多い)。  

 この時すでに2時半をまわっていたのでレストランはパスしてマクドナルドのお世話になる。カウンター台にはメニュー用紙がなく上を方にあるメニューを見ながら注文することになる。当然ビックマックと言ってもおねーさんには通じないのは体験済みなのでロシア語ができないとお手上げである。しかし95年のモスクワと違う点はセットものの表示が図柄つきであり番号が付されていた。これはやれやれで注文の時は指で上を指し「ノーメル アジーン バジャールスター(第1番のをください)」と言ってみたら通じた模様でビックマックセットが100ルーブル程度(約400円)だった。味は日本のとさして代わりがなく万国共通の味だった。


 1時間程度遅い昼と休憩の後は、サンクトペテルブルクの下町をぶらぶら歩くことになる。日本と違うのはコンクリートむき出しのビルなどはなく石造りの瀟洒(しょうしゃ)な建物が建っている点である。1階が地元の人がいくような店が並んでいたが、何故か半地下式が多く通りから見ると店を見下ろすような感じであった。やがてイサーク聖堂の南側に出たようでこの町最高級ホテルアストリアの前に着いて、イサーク聖堂をバックにニコライ1世の馬上像が後ろ向きに向いていた。


 イサーク聖堂


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